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PS0部 コスモ石油研究所向けプロジェクト(1991/11 - 1993/10) †
- OAでは大赤字を出して、組織は解散、私はTelecomPS部に異動になりました。
同じ高井戸の反対側のオフィスに移りました。
- 突然DBの専門家になれということで、ORACLEを勉強し始めました。当時マニュアルが本棚3段ぐらいあって、そのうち主要なマニュアルが1段、幅が1mぐらいあってそれを読み込んだ記憶があります。 普通は大変だと思うのでしょうが、就活の時にIBMのエンジニアからロッカ一杯のマニュアルを見せられたり、凸版でHPのWorkstationのマニュアルが英語で同じぐらいのボリュームあって、量に対する感覚がマヒしていたと思います。
- 今でも、どれだけ資料を読まなければいけないという状況になっても、歳で時間がかかってしまうがと思うだけで、別段ビビらないのは、そういった経験からくる強みかもしれないです。
- そんなこんなで、テレコムのサポートを行っている時、突然、コスモ石油のプロジェクトが火を噴いているので、そちらに参加してくれと言われて、1フロア下に異動となっりました。確か3Fに移って、PSO-0部というふざけた組織名に配属されました。
- 担当マネージャの鈴木茂雄さんは席だけは残っていましたが、しばらくすると亡くなったという話になり、その後の大変な状況も含めて、悲惨なプロジェクトについての知見がたまったと思います。今、火描き棒の代わりに使っているYHPのロゴが入っているペーパーナイフは、その時の形見分け?として配布されたものです。
- プロジェクトはひどいもので、コンセプトだけで売ってしまった案件です。
- コンセプトはHyperLinkを実現する仕組みで、当時まだWebもなかった時代ですから、結構先進的な発想ですが、開発が絶望的に稚拙でした。
- 茅ケ崎のサードパーティの怪しい提案に野心的なYHPのマネージャが乗ってしまった事故案件で。リリース予定日が過ぎても何もできていない状況。私も、茅ケ崎の開発拠点に行ったこともありましたが、デモを見せてもらいましたが、まともに動かなかったです。
- 結局Acesssという4GLを使って構築することになりました。(あとからPMになった人もいつも体調悪そうだったなぁ)
- 色々対応した結果、全く動かない研究所の情報管理システムが一応曲りなりに動くことにできました。
- 研究所の場所は幸手で(そういえば杉戸の凸版の研究所や一時住んでいた久喜から近いけれど)毎回タクシーで駆けつける形で大変でした。
- YHPは役員で本部長の安藤滋さん、副部長の沖本さん、マネージャーの安藤治雄さんといった体制で対応していました。(代々木のオリンピック村の宿舎を借りて泊まり込みで対策会議をしたのも懐かしい思い出です)
- 何とか動くものが納品できて(私の技術力・蛮力もその一助になったとおもいますが)、クローズできました。
- これで沖本さんや営業などHP日本社内にに名前を売ることになった案件とと思います。
YHP OA課開発部員 (1989/10 - 1991/10) †
- 日本的な企業文化が肌に合わず外資系を中心に転職活動をしてました。FedExとかもありましたが、高井戸のYHPにしました。 業務終了後の薄暗く迷路のような通路の先のオフィスでの2段階面接とか懐かしい。面接官は事業部長の市野寿男さんで、最初の部長が安藤治雄さん、直接の上司が坂本孝さん(某ブックオフ社長と同姓同名)でした。 今思っても強力な面子でしたねぇ。
- 最初はUNIXのワークステーションでDTPを行うPublissの開発担当。 私はRichoのA3プリンタードライバーを作成。 PCLのエミュレータのコマンドをRicho用に書き換えるだけだけど、A3のLaserPrinterはRichoだけだったみたい。
- そのあと、Graphic Editorの開発。 VISIOみたいなツールだけど、こちらの方が先行していて、今思うとかなり先進的なソフトでした。 コマンドの体系を決めたり、保存するファイルの仕様を決めたり、X上のMotif対応+Starbase(HPのグラフィックライブラリ)を組み込んで、GUIで図形編集を行い、プリンターに出力、プロッター出力も可能にしてました。要件定義から外部設計・内部設計、全部で2万行ちょっとのC言語ソースの作成・デバックに、製品化テスト、マニュアル作成、カタログ作成などマーケティングの一部など、ソフト製品開発の基本的なことを一通り経験しました。 ただ、プロジェクトは大幅遅れで、大赤字の上に、製品は全く売れなかったですけど。 今思うと、製品のアウトプットの品質に対するこだわり(例えばフォントや線のきれいさ)もなく、難しく不要な機能は先送りするという早めの判断、なにより計画的に物事を進めて、ゴールを達成するという基本ができていなかったと思います。
[2025/4/21]
凸版印刷 生産技術研究所 (1987/4 - 1989/9) †
- 工場の自動化システム構築です、SonyのNEWSにCでプログラムを作ってました
- 比較的全国の工場を回りましたね。あまり活躍できなかったですね。杉戸の研究所勤務です。久喜に一軒家を借りて住んでました
- Unix(BSD), SonyNews, Workstation, C言語, MASM(アセンブラ)
- 杉戸の総合研究所に押し込められて、車で通勤(久喜のアパート)、はんだごてとセンサーの部門で、色々な工場をめぐりました、なんだか何もできない私が肩書だけで大事にされたり、研究?に一生を捧げるのが良いのか悩む、HPのマニュアルが素晴らしいことから、HPがいいかなと思い始めた頃、当時は駅から見えるけれどなかなかつかない研究所、自由だけどこのままでよいのかと思う日々、三菱ミニカで週末実家に戻る日々、東北自動車道から環八、第三京浜、横浜新道と車を飛ばした
[2024/3/25]
凸版印刷 CTS Programmer (1986/4 - 1987/3) †
- 間取り図システムの関数作成、福田繁雄のポスター制作サポート
- PL/1でMFのプログラムを組んだし、紙テープやオープンリールが活躍していましたね。勤務地は板橋です。川口から通ってました
- PL/1, MainFrame(Fujitsu Mシリーズ), 日本語タイプライタ, CTS(Computer Typographic System),
- PCでC言語、Turbo-Pascal, PAD図で設計して大失敗, 川口でアパート暮らし、大家さんは鋳物工場、隣は市民会館、最初は公衆電話で実家に連絡、今は建て替えられて跡形もなし、自炊していたが店が閉まるのが早くてコンビニでニラを買ったり、ご飯とみそ汁の生活、土日はバイクで実家で跨線橋を超えてアパートに帰る、フォントサイズとカスタム活字を使ってドットが自由の女神といった福田繁雄の支援を行いました、色々面白かったけど給料は安かったかも
[2024/3/25]
テンプレート(start - end) †
- 業務名、プロジェクト内容
- そこで学んだこと、技術要素
- 個々の技術要素詳細:思い出しながら
- トピックス、話題、ブログの卵
[2024/3/25]